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公式サイト キャリア公認のWebサイト。 外為の比定地については、「魏志倭人伝」に書かれている方角表記や距離表記をその通りにたどると、日本列島のはるか南方の海中になるため、様々な解釈がなされてきた。古くは『日本書紀』の編者により邪馬台国と大和朝廷、卑弥呼と神功皇后は同一であるとされ、南北朝時代の北畠親房らも同様の主張をしてきた。江戸時代には、新井白石や本居宣長らが比定地や行程などに関する独自の説を発表した。明治時代に入って論争が始まり、多数の説が提唱されてきた。これらは「邪馬台国論争」などとも呼ばれている。もともとは学者間の論争であったが、1967年に発表された宮崎康平の『まぼろしの邪馬台国』(講談社)という書籍によって邪馬台国論争は「邪馬台国ブーム」となり、日本人一般にまで波及した。 日経225の所在地については日本国内どころか世界各地までにもその地を求める論者がいるが、学界の主流は「畿内説」と「九州説」の二説に大きく分かれている。九州説の一つに、邪馬台国が移動したとする「東遷説」もある。邪馬台国所在地論争は、この二大説の対立が中心となっている。 かつて、畿内説は先物取引 の方角表記が誤っていると考える研究者(「連続説」、主に京都大学系)に多く見られ、九州説は距離表記が誤っていると考える研究者(「誤記説」、主に東京大学系、白鳥庫吉及び内藤湖南を参照)あるいは榎一雄に代表される「放射説」を取る研究者に多く見られた。また、最近の畿内説は、水掛け論に陥りやすい「魏志倭人伝」の解釈より考古学による知見のほうが確実と見なす傾向があり、考古学者の支持が強い。 FXで用いられる「連続説」(連続読み)とは、魏志倭人伝に記述されている方角や距離に従って比定していく読み方で、帯方郡を出発後、狗邪韓国・対馬国・一支国を経て北部九州に上陸し、末廬国・伊都国・奴国・不弥国・投馬国・邪馬台国までを順にたどる。一方、九州説で用いられる「放射説」(放射読み)は、伊都国までは連続読みと同じだが、その先は伊都国から奴国、伊都国から不弥国、伊都国から投馬国、伊都国から邪馬台国というふうに、伊都国を起点にする読み方である。 投資信託は、道程に関して「古代の海岸線は現代とは異なることを想起しなければならない」と指摘し、現在の海岸線で議論を行っていた当時の学会に一石を投じた。しかし、古代の海岸線を元に考察しても、有利となる場所の相互間のみで変化があるだけで連続説あるいは放射説の根本部分に大きな影響を与えるほどの学説ではないことから現在ではこの点に関しては問題とはされていない。 また、近年の考古学的成果、特に年輪年代学による新しい年代観により、大和地方での初期国家の成立が邪馬台国と同時代の2世紀頃までさかのぼるとの説が有力になっている。これを踏まえ、現在ではプレ大和王権と邪馬台国と直接結びつくのか(あるいは初期の大和王権と邪馬台国が同一のものなのか)が論争の焦点となっている。他方、新しい年代観に懐疑的な研究者もいる。年輪年代学では原理的に遺跡の年代の上限しか決定できない上に、まだ専門家の数が少なく、日本の標準年輪曲線は一つの研究グループによって作成されているために、独立した検証が不十分なためである。 畿内説に立てば、3世紀の日本に少なくとも大和から大陸に至る交通路を確保できた勢力が存在したことになり、大和を中心とした西日本全域に大きな影響力を持つ勢力、即ち大和王権がこの時期既に成立していたとの見方ができる。 一方の九州説の立場を取ると、邪馬台国は九州の地方王権に過ぎないことになり、3世紀に大和王権が存在していたかどうか疑わしくなる。邪馬台国の位置を巡る論争は、日本国家の成立を解き明かす上でも重要な位置を占めている。 畿内説には、琵琶湖湖畔、難波などの説があるが、その中でも、奈良県桜井市三輪山近くの纏向遺跡(まきむくいせき)を邪馬台国の都に比定する説が、下記の理由により有力とされる。 年輪年代学の成果により、画文帯神獣鏡などの記年鏡の年代も一致したことから、邪馬台国の時代にすでに遺跡の築造が始まっていたとみられ、最盛期が弥生時代終末期〜古墳時代であり、邪馬台国の時代と合致すること。 吉備、阿讃(東四国)の勢力の技術によると見られる初期の前方後円墳が大和を中心に分布しており、時代が下るにつれて全国に広がっていること[13]。 北九州から南関東にいたる全国各地の土器が出土し、纏向が当時の日本列島の大部分を統括する交流センター的な役割を果たしたことがうかがえること。 卑弥呼の遣使にちなんだと見られる景初三年、正始元年銘のものを含む三角縁神獣鏡が、畿内を中心に分布し、かつこれらがかつては4世紀以降の古墳にのみ見られ時代が合わないとされていたのが、年輪年代学等の結果により、3世紀に繰り上げられ、時代が合致すること[14]。 弥生時代から古墳時代にかけておよそ4,000枚の鏡が出土するが、そのうち紀年鏡13枚のうち12枚は235年〜244年の間に収まって銘されており、かつ畿内を中心に分布していること。この時期の畿内勢力が中国の年号と接しうる時代であったことを物語る。 『日本書紀』神功紀では、魏志と『後漢書』の倭国の女王を直接神功皇后に結び付けており、中国の史書においても、『晋書』帝紀では邪馬台国を「東倭」と表現し、正しい地理観に基づいている『隋書』では、都する場所ヤマトを「魏志に謂うところの邪馬臺なるものなり」と何の疑問もなく同一視していること。現行の「魏志」がすべて宋時代の刊本を元としているのに対し、それ以前の写本の中には、南を東と正しく記載したものがあった可能性もある[15]。 逆に、畿内説の弱点として上げられるのは次の点である。 倭国の産物とされるもののうち、鉄や絹は主に北九州から出土する[16]。 「魏志倭人伝」に記述された民俗・風俗がかなり南方系の印象を与え、南九州を根拠とする隼人と共通する面が指摘されていること[17]。 「魏志倭人伝」を読む限り、邪馬台国は伊都国や奴国といった北九州の国より南にあったように読めること[18]。 かつて、畿内説の根拠とされていたが、今は重要視されていないものは以下のものである。 三角縁神獣鏡を卑弥呼が魏皇帝から賜った100枚の鏡であるとする説。しかし、既に見つかったものだけでも400枚以上になること、中国社会科学院考古学研究所長である王仲殊が「全て漢鏡ではない」と発表していることなどから、九州説の側から「全て偽作である」という反論を受けている。[19]。 邪馬台国長官の伊支馬(いきま?)と垂仁天皇の名「いくめ」の近似性を指摘する説もあるが、大和朝廷の史書である記紀には、卑弥呼の遣使のこと等具体的に書かれていない。田道間守の常世への旅の伝説を、遣使にあてる説もある。 九州説は畿内説における纏向遺跡のような有力な具体的候補地はまだなく、福岡県の大宰府天満宮、大分県の宇佐神宮、宮崎県の西都原古墳群など、九州各地に、それぞれ近辺を都とする諸説が乱立している。 帯方郡から女王國までの12,000里のうち、福岡県内に比定される伊都国までで既に10,500里使っていることから、残り1,500里[20]では邪馬台国の位置は九州地方を出ないとされること[21]。 邪馬台国と対立した狗奴国を熊本(球磨)の勢力と比定すれば、狗奴国の官「狗古知卑狗」が「菊池彦」の音訳と考えられること[22]。 魏志倭人伝中で邪馬台国の埋葬方法を記述した『有棺無槨』を甕棺と見なす見解に基づき、北九州地方に甕棺が多数出土していること[23]。 その後の邪馬台国については、畿内勢力に征服されたという説と、逆に東遷して畿内を制圧したとの両説がある[24]。 一部の九州説では、倭の五王の遣使なども九州勢力が独自に行ったもので、畿内王権のあずかり知らないことであるとするものがある[25]。 逆に、九州説の弱点として上げられるのは次の点である。 奴国2万余戸、投馬国5万余戸、邪馬台国7万余戸、更に狗奴国といった規模の集落が九州内に記述通りの順番に収まるとは考えにくいこと[26]。 中国地方や近畿地方に、九州をはるかに上回る規模の古墳や集落が存在していること。